脱原発を完了したドイツと反原発運動の歴史

原発

2023年4月15日、ドイツは最後に残っていた3基の原発、ネッカーヴェストハイム2、エムスラント、イザール2を停止し、ついに「脱原発」を完了しました。危険で高価で持続不可能な電力生産に終止符が打たれたのです。

この日、ミュンヘン、ネッカーヴェストハイム(原発立地)、リンゲン(燃料棒製造工場のある町、エムスラント原発近郊)で大きなデモが行われ、人々は50年にわたる原子力発電とのたたかいへの勝利をたたえ、喜び合いました。

4月15日、ミュンヘンでのアクション(写真:Jörg Farys/BUND)
4月15日、ネッカーヴェストハイム(写真:Christoph Schramm/BUND)
4月15日、リンゲン(写真:Sitara Thalia Ambrosio/BUND)
4月15日、ミュンヘン(写真:Jörg Farys/BUND)
4月15日、ミュンヘン(写真:Jörg Farys/BUND)

ドイツは、2030年までに石炭火力発電からの脱却を予定、2035年までに再エネ100%をめざしています。ただし、燃料棒製造やフランスやベルギーなど隣国の原子力発電、そして放射性廃棄物の最終処分場選定など、原子力との対峙は今後も続きます。

一方、原子力を使い続けるべきだという声もドイツ国内にあります。バイエルン州首相のマルクス・ゼーダー氏(キリスト教民主同盟)は、原子力の運転を国から州の管轄に移し、再稼働をするべきだと強く主張しているのです。

BUNDバイエルン州会長のリヒャルト・メルクナー氏は次のように述べています。「バイエルン州のCSU(キリスト教民主同盟)、フライエ・ヴェーラー(無党派組織)、FDP(自由民主党)の各党首にも、ドイツにおける核時代の終焉を受け入れ、この非常に危険であまりにも高価な技術を復活させるための策をこれ以上進めないよう訴えます。1980年代初頭のヴァッカースドルフの再処理工場に対する抗議は、バイエルン州における原発への激しい抵抗の始まりであり、イザール2の停止は、今やその終わりを意味するはずです。再生可能エネルギーの拡大により、ドイツはロシアやカザフスタンのような独裁政権から完全に独立して、クリーンで無限に利用可能な安価な電力を生産することができますし、今後もそうなるでしょう。これが未来の姿であり、暗黒の核時代は過去のものとなったのです。」

以下、FoE Japanの姉妹団体である FoEドイツ(BUND:ドイツ環境自然保護連盟)のウェブページから、ドイツ脱原発運動の歴史を紹介します。
Atomausstieg – BUND e.V.

1960年代

ドイツ最初の商業用原子炉

ドイツ最初の商業用原子炉は、1961年にバイエルン州・グロースヴェルツハイムに建てられたカール原子力発電所だった。東ドイツでは1969年にラインスベルク原発が運転を開始した。1987年に起こった事故で、ラインスベルク原発の地下水が放射能に汚染された。

1965年、ザクセン・アンハルト州の老朽化したバルテンスレーベン鉱山がモルスレーベン処分場として指定された。国境を挟んだ反対側(西ドイツ)では同年、廃棄物貯蔵には不適切なアッセ塩山で核廃棄物の貯蔵を開始した。

反対運動の拡大

1968年、ドイツで原子力発電所に対する抵抗が強まりました。ヴュルガッセンでは、反対派が初めて計画中の原子力発電所に対して訴訟を起こした。そうすることで、彼らは法律の改正を実現した。原子力法の対等な目的は、安全性を保証することでもあるようになった。

1969年、アメリカのデビッド・ブラウアーと数人の仲間が「フレンズオブジアース」を設立し、猛烈な反原発キャンペーンを展開した。その後設立されたBUNDは、1989年に国際的なFoEグループの一翼を担うようになった。ブラウアーは、「核燃料サイクルのすべての段階が災害のようである。核エネルギーは私たちの大きな過ちの一つだ。原子力の魔人は壺に戻さなければならない。」と言っている。

1970年代

ヴィ―ルの反対運動の成功

バーデン・ヴュルテンベルク州では、1970年代初頭に反原発運動が最初の成功を収めた。1972年、フランス、ドイツ、スイスの市民が、隣国フランスのフェッセンハイム原子力発電所の建設現場を占拠した。ドイツでも、学生やワイン農家、農民が原発の建設計画に反対するデモを行った。彼らは「Nai hämmer gsait!(嫌と言ったら嫌だ!Nein haben wir gesagt!)」というスローガンと市民的不服従によって、バーデン・ヴュルテンベルク州での原子力発電所の建設を阻止した。1975年、バーデン・ヴュルテンベルク州ヴィールの建設現場には3万人近い人々が集まり、数カ月後、建設は中止された。ヴィールでの抗議活動は、大規模な抗議活動や拡大し続ける反原発運動の始まりとなった。

抗議活動の過程で、ドイツ全土で市民運動や地域活動グループが設立される。その中には、後のBUNDの地域グループの前身となるものもある。1975年、ドイツ環境自然保護連盟(BUND)が設立され、当初から原発に反対し、持続可能なエネルギーを求めるキャンペーンを展開した。1976年、BUNDは地元の環境保護団体と共同で、ドイツ初のエコ・メッセを開催した。ザスバッハで開催された「太陽の日」では、原発への代替として再生可能エネルギーや省エネルギー対策が紹介された。

グローンデ原発、カルカー原発、ゴアレーベン

ニーダーザクセン州やノルトライン・ヴェストファーレン州でも、原発の建設やゴアレーベンの核廃棄物処分場の建設に抗議するため、建設現場の占拠やクリエイティブなアクションがとられた。ブロックドルフ、グローンデ、カルカーなどで、何万もの人々がデモをした。反原発デモは、しばしば警察の大規模な暴力による流血の衝突となった。政治家と産業界は、全力で原子力政策を推し進めようとした。1977年、グントレミンゲンA原発から電気を送る2本の送電線が破断する事故が起こった。原子炉から高濃度の放射能汚染水が漏れ出し、敷地内の汚染は今も続いている。

反原発の力強い運動

1979年3月、アメリカのハリスバーグにあるスリーマイル島原子力発電所で、部分的なメルトダウンをともなう重大事故が発生した。放射性ガスが漏れ出し、冷却水が近くの川を汚染した。近郊の14万人が避難した。同じ頃ハノーファーでは、再処理や核廃棄物の貯蔵に関する安全性の問題について批判する国際的なゴアレーベン・シンポジウムが開催された。ニーダーザクセン州各地からトラクターが次々と「ゴアレーベン・トレック」としてハノーファーにやってきた。10万人が原子力発電に反対するデモを行ったが、これはそれまでの連邦共和国(西ドイツ)で最大のデモであった。ボンのホーフガルテンで行われたデモにも、同じぐらいの人数が集まった。政治的圧力は非常に大きくなり、ニーダーザクセン州政府は再処理工場の建設を断念した。しかし、「最終処分場」の計画は維持されることになった。それでもこれは運動の最初の大きな成功であった。BUNDも抗議活動をともに行った。当初は原子力に前向きな姿勢を見せていた一部の地域支部やグループも、スリーマイル原発事故ですぐに方針転換した。ゴアレーベンのすぐ近くでBUNDリュショー・ダンネンベルク地区グループが設立された。1980年以降、BUNDはドイツ全土の反原発運動で中心的な存在の一つとなった。様々な市民団体やアクショングループなどとともに、BUNDはゴアレーベン、原子力発電所、再処理工場に反対した。

1980年代

ブロックドルフ・ヴァッカースドルフ

1980年5月以降、核廃棄物処分場の作業に対する抗議として、ゴアレーベンで「自由ヴェントランド共和国」が宣言される。1981年にはブロックドルフ原発で最大規模の反原発デモが行われた。東西分断にもかかわらず、ドイツ全土から10万人が参加した。BUNDの活動家も大勢いた。警察は暴力でデモを阻止しようとして多数のデモ参加者を負傷させ、重症者も出た。ニーダーザクセン州、ラインラント・プファルツ州、ヘッセン州で再処理工場の阻止に成功した後、1980年代前半、バイエルン州のシュヴァンドルフ近郊にヴァッカースドルフ再処理工場が建設されることがわかった。すぐに何千もの人々が集まり、反対するデモを行った。抵抗は年々拡大し、州境を越えて知られるようになる。多くの抗議者が警察の暴力を受け、逮捕され、家宅捜索された。それでも1986年のイースターには10万人が集まった。また1986年7月に開催された「愚かな再処理反対祭」では、数十万人が原子力に抗議した。1988年のヴァッカースドルフ再処理工場に関する公聴会では、BUNDバイエルン州の異議申し立てだけで18冊のファイルになった。1989年、この計画は最終的に中止された。BUND バイエルン州代表、後にBUND代表となるフーベルト・ヴァインツィール、BNエネルギー専門家で核物理学者のLudwig Trautmann-Popp博士、BUND名誉会長フーベルト・ヴァイガー、その他多くの活動家たちが、ヴァッカースドルフを何度も訪れた。1985年12月、フーベルト・ヴァインツィールは50歳の誕生日をフェンス前で祝い、警察の存在により彼自身の言葉によれば、「ドイツ連邦共和国史上、最も警備の厳しい誕生日ケーキ」を振る舞った。

チェルノブイリ原発事故

1986年4月、チェルノブイリ原子力発電所(当時ソビエト連邦、現ウクライナ)で過酷事故が発生した。それまで原子力業界が起こりえないと言っていた事故であった。事故の被害は致命的だった。30万人以上の人が故郷を追われ、何千もの人々が被ばくにさらされた。多くの人が亡くなり、あるいは今も後遺症に苦しんでいる。放射性物質を含む塵は、気象条件によってドイツにも到達した。ドイツ民主共和国(東ドイツ)では、チェルノブイリ原発事故をきっかけに反対運動が起こる。シュテンダルでは、新しい原発の建設に反対するデモが行われた。東ドイツ南部では、ヴィスムートでのウラン採掘による汚染の深刻さが指摘される。西ドイツでは、原子力に反対するデモが増え続け、批判的な科学者組織も現れる。1987年12月、ビブリスA原発のバルブ故障から放射性物質を含んだ冷却水が漏れる。高圧の中、奇跡的に制御弁を再び閉じることができ、冷却水の大きな損失を回避したが、冷却水の喪失は炉心溶融や過酷事故につながるところだった。

「もう一つの放射線委員会」設立

BUNDは、「もう一つの放射線委員会」を設立することで独立した情報を求める国民の声に応え、さまざまな分野から相応しい科学者を集めた。これまで非公開とされてきたチェルノブイリに関するデータ資料を公開し、科学的な評価を行った。特に、放射能汚染が人や動植物に与える影響に注目した。もう一つの放射線委員会は、瞬く間に市民の間で信頼される諮問機関となった。電話が鳴り止むことはなかった。BUNDの地域支部はイベントを企画し、広報活動を強化した。一部の地方事務所は電話サービスを立ち上げ、短期間のうちにチェルノブイリ原発事故に関する情報誌を作成した。原子力に対する抗議はさらに大きくなった。ラインラント・プファルツ州ではミュルハイム・ケルリッヒの原子力発電所計画への反対が激しくなり、ザールランド州ではフランスのカッテノム原発に対する抗議活動が行われ、BUNDバイエルン州は脱原発キャンペーンに5万マルク(約350万円)を投じた。BUNDの信頼性もさらに高まった。ミュールハイム・ケルリッヒ原発に対する訴訟を支援することで、BUNDは多くの支援者とともに、脱原子力に積極的に貢献した。

核の軍事利用

1980年代に入ると、原子力の民間利用と軍事利用の関連性が、反原発運動の新たなテーマとして加わった。再軍備、NATOの二重決定、核シェアリングに対する抗議は、原子力の民生利用の文脈でも取り上げられた。1981年には、ボンで西ドイツ最大のデモが行われ、約30万人が平和と核ミサイル反対のために集った。BUNDは核軍縮や平和政策の問題にも取り組み、環境運動と平和運動の連携を強化し、1983年にはこれに関して公に表明した。この密接なつながりは、現在も続く。BUNDは2023年から核兵器廃絶の国際キャンペーンに参加し、原子力の民生・軍事利用に反対している。

1990年代

放射性廃棄物輸送への反対運動

1990年初頭、シュピーゲル誌の報道により、グライフスヴァルト原発の重大な危険性が知られるようになった。1973年の運転開始以来、数々の事故や故障が起きていたのだ。東ドイツで過酷事故が起きなかったのは幸運にすぎない。現地やベルリンでの抗議活動は、1990年末までにこの原発の全基を廃炉に導いた。建設中だったシュテンダル原発も、地元住民の抵抗で1991年に廃炉となった。1990年代に入り、クリュンメル原発の周辺に白血病の多発が見られた。BUND原子力・放射線委員会(BASK)の副委員長を長年務めたインゲ・シュミッツ・フォイヤーヘイク教授をはじめ、批判的な科学者が放射能汚染の危険に注意喚起した。同時に、ザルツギッター近郊のコンラート鉱山にある低・中レベル放射性廃棄物の「最終処分場」の認可手続きも開始された。BUNDニーダーザクセン州は、各地域グループとともに、老朽化した核廃棄物処分場に反対する3万以上の異議申し立てを集めた。

最初のXデーは1995年4月にやってきた。放射性廃棄物のキャスターが初めて、当時予定されていた「最終処分場」であるゴアレーベンに運ばれた。この列車の進行に沿って反対のデモが起こり、その後のキャスター輸送でも強い抵抗があった。BUNDの多くの活動家が、ヴェントランド地方の地元住民と力を合わせて輸送に反対した。
1994年から1998年にかけて、アンゲラ・メルケルが連邦環境大臣についていた間、放射性廃棄物はモルスレーベンの老朽化した「最終処分場」に運ばれ続けた。BUNDと地元市民団体、グリーンピースが起こした訴訟が、さらなる貯蔵をようやく止めた。それ以来、処分場の安全な廃止は延期されている。1998年には、長年にわたりキャスターの外側が基準を超えて汚染され、人々に危険を及ぼしていることも明らかになった。核廃棄物輸送は一時停止された。

2000年代

脱原発と脱脱原発

2000年、赤緑(SPDと連合90緑の党)連邦政府は、原子力発電所の段階的な廃止を決めた。発電電力量の上限を設定することで、約20年以内に段階的廃止を完了することとなった。旧西ドイツの原発のうち、オブリーグハイム(2003年)とシュターデ(2005年)の2ヶ所は、この原子力合意に従って、廃止されることとなった。2005年からは、国外での再処理を目的とした使用済み核燃料の輸送が禁止された。これは反原発運動とBUNDにとって、部分的ではあるが大きな成果だった。しかし、当時のBUND代表のアンゲリカ・ツァルントは、合意された段階的廃止はあまりに遅く、「原子力産業への贈り物」であると批判した。

2010年9月、この「原子力合意」が、メルケル首相率いる黒・黄(CDUとFDP)の連邦政府によって覆された。個々の原発の寿命が8年または14年延長されたのである。無責任な寿命延長に対し、反原発運動は大きな動員を行って抗議した。BUNDをはじめとする多くの市民団体が、ドイツ全土でデモや人間の鎖を企画し、十数万人が参加した。ベルリンでは10万人が集まり、クリュンメル原発とブルンスビュッテル原発の間では12万人が鎖を作り、ミュンヘンでは5万人がデモを行った。

核廃棄物処分場アッセでは1980年代末から水漏れが続き、初めてその惨状が公にされた。廃棄物は多大な費用をかけて回収することになっている。

2010年代

福島第一原発事故と2度目の脱原発

2011年3月、日本の東北沖で大地震が発生し大津波が海岸を襲った。2万人以上が死亡し、数十万人が故郷を追われた。最大15メートルの津波は、福島第一原発も直撃した。一部の原子炉は数メートルの高さまで浸水し、非常用発電機も数分で完全に故障した。そして数回の炉心溶融を伴う事故が続き、大量の放射性物質が放出された。連邦政府は倫理委員会を設置し、BUND名誉会長のアンゲリカ・ツァルントもその一員となった。BUNDは、ミュンヘン、ケルン、ハンブルク、ベルリンで大規模なデモを開催し、その他にも多くの取り組みをした。2011年4月だけでも25万人以上の人々が街に出た。そしてついに、アンゲラ・メルケル政権は、2022年までにすべての原発を廃止することを決定した。 2011年にすでに8つの原子炉が停止し、残りを順次停止していくこととなった。BUNDにとって、これはあまりに遅いことだった。当時BUND代表であったフーベルト・ヴァイガーは、「我々は即時の脱原発を要求する」と言った。「すぐ翌朝という意味でなくとも、2022年よりずっと早くという意味だ。私たちは、2012年末か2013年末に最後の原発を停止させることができるよう、エネルギー転換のために戦っている。原子力の危険性は大きすぎると考える人は、10年間も過酷事故のリスクと付き合いたいとは思わない。」

核のごみをどうするか

脱原発決定後、核のごみをどう処理するかが国民の議論の焦点となった。2013年、政府は新たな立地選定法を定め、委員会を設置する。原子力事業者は、廃棄物に対する責任から逃れるためにあまりにも低額な一度限りの支払をする。ゴアレーベンは「最終処分場」の候補地として残っていたが、2012年に探査作業が中止された。最終処分場委員会は大きな批判にさらされ、反原発運動の間では見せかけだけのものとして否定された。
長い論争を経て、BUNDは最終処分場委員会に参加し、当時の副代表であったクラウス・ブルンスマイヤーを派遣した。投票権を持つメンバーとして唯一、BUNDは委員会の最終報告書を拒否し、報告書に関する特別投票を発表した。同時に、BUNDの中に原子力作業部会が設置された。BUNDは、捜索手続きに批判的かつ建設的に参加し続けている。BUND現代表のオラフ・バントは、核廃棄物の問題は中間貯蔵施設でくすぶり続け、グローナウとリンゲンの燃料棒工場は無期限に操業を続けるかもしれないと警告している。一刻も早い原子力からの完全な脱却が必要である。

2020年代

ゴアレーベンは白紙に

2020年9月、連邦放射性廃棄物機関(BGE)は、いわゆる「最終処分場」のための用地探しの第一段階を完了した。ゴアレーベンは、地質学的に不適当であるため除外された。ゴアレーベンの終了は、反原発運動やBUNDの学術的活動の大きな成功であった。

ストレッチ運転の決定

本当は、ドイツの原子力発電は2022年の大晦日に歴史に幕を下ろすはずだった。しかし、最後の3つの原子炉は、2023年4月15日まで、いわゆるストレッチ運転を続けることとなった。BUNDは、他の市民団体とともに、原子炉の運転延長に反対し、完全な脱原発を求めるキャンペーンを展開した。原発が停止しても、核の時代はまだ終わらない。核廃棄物は安全でない中間貯蔵施設に保管され、「最終処分場」探しは遅れ続けている。さらに、グローナウとリンゲンのウラン加工工場、ガルヒングの研究炉は兵器にも用いられるウランで稼働している。

 

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