マーシャル諸島歴史
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マーシャル語には独自の文字文化がないため、16世紀初頭にヨーロッパ人が入植を始めてからの文献しか残っていません。このため、学界の中で正確な時期に様々な意見がありますが、一般的にはマーシャル諸島の歴史は2千年前に端を発したとされています。
マーシャル人と外国人との接触は1528年に遡ります。スペイン人のアルバロ・デ・サーベドラがマーシャル諸島にたどりつき、1686年には領土権を主張しますが、マーシャル諸島の実質的統治は行われませんでした。
概して、スペイン人の滞在は短期間で、島民との最小限の貿易と交流を行っただけでした。
1788年には、ウイリアム・マーシャル船長がスカボロー号、ジョン・ギルバート船長がシャーロット号にのってやって来ました。ちなみにマーシャル諸島はマーシャル船長にちなんで名づけられました。彼らは島民と貿易をし、アルノ、マジュロ、アウル、マロエラップ、ウォッジェなどの環礁地図を作りました。
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イギリス船は、彼らに続いて他にもやって来ました。1797年のナム環礁にたどり着いたにブリタニア号、1803年、アイリンラップラップ環礁にはローラ号、1809年にはジャルート環礁にエリザベス号がそれぞれ寄港しました。
1816年,ロシア人であるオットー・ボン・カッゼブ船長がルーリック号でやって来ました。
マーシャル滞在中、同船長は初めて,民族学の観察と、ウォッジェ、マロエラップ、アウルを訪問し,島々の調査を行いました。ルーリック号には,芸術家のルデュウィグ・クリス
と自然学者のアベルバート・ボン・チャミッソも乗船していました。彼らによって水路学,植物学,動物行動学それぞれにおける研究がなされました。これにより、ヨーロッパ世界に初めてマーシャル諸島やその環礁の細かい様相が伝わったとされています。
1850年代にはドイツ人のマーシャル入植がはじまりました。1859年にはアドルフ・カペルと言うドイツ人がサモアからエボン環礁にやってきて、マーシャルで初めての貿易会社である「ヤルートカンパニー」を設立し、ヨーロッパ人としての最初の移民となりました。
その後1860年代にはアメリカの使者によってほとんどの島に教会が作られ,現在のプロテスタント社会の基礎ができます。
1885年、ドイツ政府はマーシャル諸島を保護領にする宣言をし、87年にはジャルートに本部を設置しました。この当時は首都をジャルート環礁ジャボール島に置いていました。
日本とのかかわりは1890年に商業を通じて始まりました。第1次世界大戦後の1914年にはドイツ軍が後退し、同年10月から代わりに日本軍が占領するようになりました。1920年、国連の前身である国際連盟によって日本のミクロネシア委任統治が正式に認められましたが、1933年、日本は国際連盟から脱退し、第二次世界大戦の先手を打つべく,クワジェレン,ウォッジェ,
マロエラップ, ジャルート,その後ミリとエニウェトクの各環礁で軍事要塞を固め始めました。
第2次世界大戦後、マーシャル諸島はアメリカの占領下に置かれ、1947年に国連信託統治領としてアメリカの統治が始まり、1951年に内務省が管理することになりました。
その間、1946年から1954年にかけて,アメリカはビキニ環礁とエニウェトク環礁で、計67回の核実験をしました。(このことは今日、アメリカとマーシャルの間における重要な案件として残っています)。
1970年代後半、まだアメリカとの国連保護領下にある中、独立願望の高まりが,マーシャルを民族自決の努力へ向かって踏み出させます。そして1986年、アメリカとの自由連合協定の締結をもって、独立民主主義への転換を達成し、マーシャル諸島共和国が誕生したのです。
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