スタッフインタビュー:村上正子さん

開発と人権2024.7.10

日本の政府機関や企業は「開発支援」や「途上国支援」の名の下に海外で様々な事業を行っていますが、その中には人権侵害や環境破壊につながっているものも少なくありません。FoE Japanの「開発金融と環境チーム」は、日本の官民が関わる開発事業によって犠牲になる人が出ないよう調査提言活動を重ねてきました。村上正子さんは2004年から2007年までFoEの開発金融と環境プログラムに在籍し、ロシアの巨大石油・ガス開発事業に関するキャンペーンを担当。当時のお話や思いを聞きました。(聞き手:深草亜悠美、記事化にあたり話の順序や追加情報などは適宜追加・編集)

深草:自己紹介とFoEに入ったきっかけを教えてください。

村上:村上正子といいます。学生時代は自分が何をやりたいのかよく分からず、就職後も事務の仕事をしながら何かを探していたのを覚えています。両親が幼い頃に広島で被爆しているので、私は被爆二世なんです。迷っていた頃、アメリカ人のクエーカー教徒の女性が広島で立ち上げたワールド・フレンドシップ・センターという被爆者支援団体があるのですが、そこが被爆者とともにアメリカに「平和巡礼」にいくメンバーを募集していました。「平和のために何ができる?」というキャッチコピーにひかれ、広島と長崎の被爆者の方々とアメリカを3週間近く旅しました。1998年のことです。これが「核」の問題に向き合った最初で、現在の高木仁三郎市民科学基金の仕事にもつながっています。(注:高木仁三郎市民科学基金(高木基金)は、核・原子力利用への専門的批判に尽力した高木仁三郎(1938-2000)の遺志によって、現代の科学技術がもたらす問題や脅威に対して、科学的な考察に裏づけられた批判のできる「市民科学者」を育成・支援するため設立された)。

深草:なるほど。核の問題から始められているのですね。そこからどのようにNGO職員への道へと進まれたのでしょうか。

村上:そうですね。この旅では、受け入れ側である米国の「市民活動」にとても感銘を受けました。彼らは広島・長崎での被爆の証言活動をコーディネートしてくれたわけですが、小学校から大学、教会、市役所、議会までいたるところで誰からも好意的かつ対等に受け入れられました。アメリカでは市民活動が社会にしっかり根づいていると実感し、自分もその中に飛び込んでみたくなり、2年半ほど米国のNPOでボランティア活動に従事しました。

 最初はテキサス州でホームレスシェルターに住み込み、給仕やホームレスと一緒に生活しながらのボランティア活動。そこで出会う人々からは非暴力不服従運動から貧困をもたらす構造問題など、様々な刺激を受け、社会を根本的に変えるには政治に働きかける必要があると思い、中央政府があってNGOも集まっているワシントンDCに移りました。ワシントンDCでは、先進国と途上国間の経済格差の問題(いわゆる南北問題)に取り組む団体、センター・フォー・エコノミック・ジャスティスで、世界銀行の様々な問題(途上国での構造調整、債務の問題、環境・社会影響の深刻な開発)に取り組むグローバルサウスの市民に連帯する活動のひとつとして、世銀の債権ボイコット運動に取り組みました。(http://www.econjustice.net/wbbb/、今は閉鎖)。その頃、FoEの開発金融と環境プログラムのディレクター(当時)だった松本郁子さんに会い、そのご縁でFoEに入ることになりました。

深草:FoEにいらっしゃった当時、ロシアの巨大ガス開発に関するキャンペーンに携わっていたと聞いています。どんなプロジェクトでしたか?

村上:FoEに入ってすぐに担当となったのが、サハリン2石油・天然ガス開発です。サハリンは、生物多様性豊かな寒冷地の島です。この事業は絶滅危惧種のニシコククジラの唯一の餌場付近に掘削リグを設置したり、島の北東部からサケの遡上する河川を含む1000本以上の河川をパイプラインで横断したり、南部のアニワ湾という浅瀬の生態系豊かな湾岸にプラントと港湾施設をつくり、石油と天然ガスをタンカーで輸送するという大規模なものでした。

写真:2005年12月、サハリン北東部ナビリ湾で先住民族の漁師の人たちと

 開発企業には日本企業(三井物産・三菱商事)が入り、公的融資機関として欧州復興開発銀行(EBRD)などとともに国際協力銀行(JBIC)が融資を検討していました。石油やガスの大半が日本に輸出されるといった日本の開発側での関与の他に、タンカーからの油流出事故による北海道の沿岸地域や漁業への影響、日本との間を行き来する渡り鳥や海洋生物の生息地への開発影響など、日本自体が影響を受ける側にもなるプロジェクトということで、FoE Japanは現地や海外のNGOと協力して行う国際キャンペーンと同時に、北海道の漁業者や油防除の専門家、野生生物の研究者やNPOと協力して行う国内キャンペーンの二つの運動を展開しました。1997年のナホトカ号の油流出事故の記憶も新しい頃だったので、日本でもサハリン開発の危険性がリアルに受けとめられていたのだと思います。

そういえば、漁業者の意見を聞きたくて、北海道のオホーツク海沿岸の漁協を端から順に訪ねて行ったこともありました。みなさん情報を必要としているけれど、ロシアの情報はほとんど入らない。FoE Japanはロシア語から英語になった情報を日本語に訳して伝えることができたので、突然の訪問でも歓迎されたのを覚えています。

深草:ロシア語の情報も翻訳して伝えていたんですね。どのようなところに一番苦労しましたか?

村上:活動で苦労したのは、どのキャンペーンも様々な団体や専門家が関わっていて、両方のコーディネートをするのが大変だったこと、また、私自身思いはあるものの、アドボカシー(政策提言)活動を行うに足る知識も経験もなかったため、霞が関用語(官僚が使う言葉)などもさっぱりわからず、次にどのような手を打つのかといった戦略も立てられず、とにかく未熟だったことでしょうか。ただその分、国内外のキャンペーンに関わった方々からいろんなことを教えてもらったことが今の自分の財産ですね

深草:アドボカシーといえば、今も石炭火力や様々な開発案件でJBICとやり取りすることがあります。サハリン2については、JBICでステークホルダーとの意見交換会が行われるなど、今とは少し違う対応が見られたようですが、どんな経緯だったのですか?

村上:ステークホルダーを広く集めてのJBICとの意見交換の場(環境関連フォーラム)が実施できたのは、JBICが2003年に施行された環境社会配慮ガイドラインを策定する過程で、JBIC内にもステークホルダーの意見を聞くことがグローバルスタンダードだという認識ができつつあったことが背景にあると思います。また、日本に影響がある開発だったので、JBICとしてもこうした場を通して、海上保安庁などを巻き込んで、必要な体制を構築する流れをつくりたかったのかもしれません。ただ、開発による環境社会問題が大きすぎて、そこまで議論が及ばず、ただかみ合わない場になりました。JBICはとにかく早く切り上げたい、NGO側は説明責任を果たせとなり…。すぐに公開されるはずだった環境影響評価(EIA)の補遺版が出ず、融資審査も長引き、結局13回(東京と札幌合わせて)も開催されました。せっかくの場でしたが、ステークホルダーとの対話という面で、後につながるものにならなかったことは心残りです。

 結局、サハリン2第二期工事期間中、次々と開発問題が明るみとなり、それも一要因となって、公的資金の融資を検討していた欧州復興開発銀行と米・英の公的機関が融資から撤退しました。しかしJBICは融資要請から5年後の2008年に37億ドルの融資を実施。日本が国際的な環境NGOから「金融機関が最低限の環境・社会政策を維持するために行ってきた努力を著しく傷つける決定だ」と強く批判されたプロジェクトとなりました。キャンペーンに日本側で関わった者としては、敗北感を感じました。ちょうど中国などの新興国の国外での開発問題が懸念され始めていた頃だったのですが、「日本はアジアで環境面でのリーダーにはなれない」ことを実感した瞬間でした。

深草:私たちは今でも同じような構造の問題に取り組んでいると思うのですが、今と昔、違いはあるでしょうか。

村上:私がFoEに勤務していた頃(2004~2007)は、日本の国際金融機関への拠出金も多く、国際的な環境問題において、よくも悪くもそれなりの存在感や影響力があったように思います。でも今はグローバル社会のプレーヤーが大きく変わり、かつての先進国がOECDなどの枠組みなどを通して作り上げてきた環境基準や行動規範が通用しなくなっているのではないかと思います。日本は特に原発事故以降、国内で抱えている問題が深刻過ぎて、グローバルな視点で物事を見るのがますます難しくなっている一方で、IT、AIなどの技術もあいまって、世界はどんどん小さく密になっているように感じます。国際環境NGOとしても、活動の焦点を絞るのはとても難しい時代だと思います。

深草:今の時代、どのような活動が可能なのか、もしくは求められているのだと思いますか?

村上:これまでのどおりの経済活動(ビジネス)をしていたら、もはや自然環境は守れず、野生生物はおろか人類、つまりは地球上の生物の存続の危機に直面しているという認識は必要だと思います。しかしその分、新しい生き方、生活のあり方、人と自然の関係性をつくりだしてゆける「転換の時代」にきているとも思います。過去の常識や、既存の法律や制度などにしばられず、あたらしい発想を持つ若者が、クリエイティブで挑戦的かつ根源的な活動をし、大人・シニアはそれを支えていければいいなと思います。

深草:FoE40周年を受けて何かメッセージはありますか?

村上:FoEの活動をいつもまぶしく見ています。いま、FoEで若手が育っていることにも期待しています。FoEは以前から被害者に寄り添った活動をしていて、その知見や経験が福島原発事故の対応でも活かされたと思っています。FoEの活動をみて、自分もその一部に関われたことをうれしく思うし、これからもともにがんばりたいと思います。

深草:ありがとうございました。

サハリンⅡ石油・天然ガス開発
サハリンの北東部の2鉱床で、オホーツク海の海底に埋蔵する石油とガスを掘削し、800kmに及ぶパイプラインを通してサハリン南部まで運ぶ事業。輸出先は日本向けが約6割、その他に韓国や米国など。1999年から夏季の原油生産を開始し(フェーズ1)、2008年12月には石油の通年生産、2009年春にはガスの生産が開始された(フェーズ2)。

 

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