南 の 島 の 楽 園 を 救 え 。 

ジャルートの歴史

 ジャルートは以前、マーシャル諸島共和国の首都でした。同国は1920年から1944年まで、日本の国連委任統治を受けていたため、日本とは歴史的に深いつながりがあります。

 日本統治時代には、都市としての機能を持ち、南洋貿易の拠点として栄えた町です。当時の話を聞くと、ジャボールはきれいに区画整備され、日本学校もあったようです。マーシャル人の子どもたちは、日本の子どもたちと一緒に学校に通い、勉強に励んでいたとききます。日本語教育を受けていた70歳前後のお年よりな今でも日本語が話せます。実際にそうしたお年寄りと言葉を交わしましたが、非常に流暢な日本語を話すことに大変驚きを覚えました。また、日本の歌なんかもうたってくれました。そうしたことは戦争というものを考える上で、非常に貴重な体験となりました。






1885年にマーシャル諸島共和国が、ドイツの保護領になっていた時代にはコプラ貿易の拠点となり、日本統治時代には、漁業の拠点となるなど、商業の中心地だったのがジャルート環礁なのです。
第一次大戦勃発直後の1914年、ドイツ軍がヨーロッパでの戦闘体制強化のため、マーシャル諸島から引き上げたのを機に、日本軍がマーシャル諸島へと入ってきました。
 当時のジャルート環礁には日本軍の本部が置かれ、今でも同環礁内にあるイミエジ島などには、水上飛行機の着陸施設、防空壕や大砲などの戦跡が数多く残り、当時の面影が見られます。1930年代後半には約1000人弱の日本人がジャルート環礁に住んでいたといわれています。











1945年に太平洋戦争が終結し、アメリカ軍の占領が始まり、1947年には国連の太平洋信託統治領として、アメリカの統治が始まります。 1979年にマーシャル諸島共和国憲法が制定され、1986年10月にアメリカと自由連合協定を締結し、独立をはたしています。


 

ジャルートの生活環境