ケニア円借款案件(ソンドゥ・ミリウ水力発電事業) The legend of Odino オディノの滝の伝説
アーウィング・オデラ
巨大なニシキヘビ、オミエリは1987年に絶滅した。このことは、ニャカチ地方に暮らす人々の文化が絶滅することの前兆でもあった。 地方議員のオジワン・コムブドが、絶滅したニシキヘビを再び彼らの冬眠場所であるビクトリア湖畔に呼び戻そうと議会で激しい闘いを繰り広げた時、ケニア中がそれを笑い者にした。 クサ湖畔で大規模な火災が発生した時、ニシキヘビの多くが焼け焦げになった。火傷を負ったヘビたちは政府によって400km離れた首都ナイロビの博物館に運ばれ、治療を受けている。 ニャカチの住民たちによると、ニシキヘビは通常のヘビとは違うという。ヘビの形をした彼らの祖先だと言うのだ。ニシキヘビはとても人懐っこく、夜になると民家に入り込んできたりする。すると住民は山羊や他の家畜たちと同様に彼らに餌を与えた。穀物は精霊たちや動物、伝統的なビールなどすべてに使われる。 ニシキヘビが訪れた家には、福がもたらされるという。ニシキヘビが食事をし、ゆっくり眠ったあと帰った家には、多くの財産がもたらされるとの言い伝えがあるからだ。 しかし、何ということだろう! オミエリたちはいなくなってしまった。 宿る体を失った祖先の霊たちも、同じく消えてしまった。このことで、オジワン議員はニャカチの住民たちに災いが降りかかるだろう、と予言している。なぜなら、聖なるヘビたちが乱されたからだ。 事実、ニャカチ地方には様々な災難が降りかかっている。異常気象、洪水、疫病、さらに水草の大量発生による漁業への障害。この地方では、湖の幸である魚介類が人々の主食であると同時に、主要な現金収入の糧でもあるのだ。 なぜって? そう、それはオミエリのせいだ。祖先の霊が怒っているのだ! そして今、ニャカチの人々は次なる恐怖に震えている。なぜなら、最後に遺された祖先の霊が眠る場所が、破壊の危機に瀕しているからだ。 それが、オディノの神々である。オディノの滝は、ソンドゥ・ミリウ水力発電事業の事業地のなかにある。 オディノの滝の伝説は、オミエリ伝説と同じくはるか以前から伝えられてきた。 1970年に始まったソンドゥ・ミリウ水力発電事業は、首都ナイロビ400km離れたビクトリア湖畔のミリウ川流域で建設が進行している。 1970年と言えば、カソリック教会がニャカチ、カラチュオニョ、カボンドでの各地域で伝統信仰からキリスト教への改宗を大きく進めていた時期だ。地域ではいまなお、伝統的な祖先信仰を続けている。死した霊は、オディノの滝に住むと信じられてきた。 ある時、ひとりの白人の宣教師がオディノの滝を訪ねたいと申し出た。彼は地元のガイドといっしょにその危険な旅に出た。 滝に向かう道で、宣教師とそのガイドが蜂の巣をつついてしまった。蜂は仕返しに彼らを刺し始めた。 彼らは池に飛び込んだ。宣教師は沈まないようにともがきつつもその蜂たちを追い払おうとした。蜂に刺されつづけ、さらに呼吸困難に陥るなかで、彼はついに溺れ死んでしまった。 いっぽう地元のガイドは、できるだけ長く池のなかに潜って蜂たちをやり過ごそうとした。 彼は泳いで村へ戻り、何が起こったのかを村人たちに話した。 一人の賢人が、村人とその客人がオディノの神を怒らせてしまったのだ、と言った。 神が蜂に姿を変え、侵入者を攻撃したのだ。オディノ神への謝罪の印に、山羊と鶏が生け贄として捧げられた。 村人にとってもっともショッキングだったのは、祖先の霊が白人を殺したという事実だった。その当時、白人たちはいわば神に近い存在として大きな権力を振るっていた。土地の神霊の存在を疑い、自分の神を押し付けようとした人間の命を、オディノの神は奪ったのだ。こうした聖なるオディノの伝説は敬れると同時に人々の崇拝を受け、住民たちは決してその存在を疑おうとはしなかった。 しかしこの伝説も、水力発電によって消え去ろうとしている。NGOの活動家たちがこのプロジェクト地を訪れるまで、住民たちは水力発電所建設が祖先の霊安住の地であるオディノの滝に影響を与えることに気付いていなかった。 計画では、カサイェに取水ダムをつくり川の水を分水、7kmのトンネルを通してツルディブオロの発電所まで水を運ぶことになっている。そして発電用に使われた水は導水管を通って川に返される。このように30kmに渡って川が遮断されるのだ。 水力発電所が建設されているミリウ川流域は、文化・信仰の豊かさで知られている。住民たちは「事業が進めば、先祖の霊が宿るオディノの滝と、精霊が住まうミリウ川が破壊されるのでは?」との言い知れぬ不安を抱えているのだ。 水力発電事業の視察に多くの人が訪れるが、彼らには何もオディノの滝の話は伝わっていかない。なぜなら、住民たちは例え促されてもめったにオディノのことを外部の人間には話そうとしないからだ。訪問者たちは、住民にとってこの滝のことは大した問題ではないのだと勘違いして帰ってしまう。しかし、オディノの伝説は余りにも神聖であるため、人々が軽々しく口にすることは許されない類のものなのだ。 事実、「ワング・オディノ」(オディノの眼)を実際に訪れたことのあるのは住民の1%にも満たない。滝の織り成す姿は本当に息が止まるほど美しく、壮観で華麗だ。ワング・オディノへのルートは実にわかりにくく、危険なものだ。滝近くに住む住民のみが、正しい道のりを知っている。ガイドがなければ、なかなかこの美しい滝にはたどり着けない。現在この滝への道はすべて木が刈られ剥き出しになっている。 1999年までは道は森に覆われ、猿などの野生動物によってつくられた無数のけもの道と交錯していた。住民たちは、こうしたけもの道は冒険家たちを迷わせるために神々がつくったものであると信じていた。幾筋にも分かれた滝から取り囲むように聞こえてくる水音についても、祖先の霊が宿る場所を悟らせまいと神々が仕掛けたワナだと信じていた。 若者たちにはこの滝を訪れることが禁じられていた。たいへんな高齢となったとき、もしくは死に至ろうとした時、はじめてこの滝への訪問が許された。彼らは、滝を訪ねる旅を祖先と会うためのスピリチュアルな行為ととらえ、生の終わりが来て先祖とともにワング・オディノと住まうための、準備の儀式と考えていたのだ。もし若者が興味本意で祖先の霊が住まうオディノの滝を訪れようものなら、その者には急激な死が訪れる、と信じられてきた。 これが、キリスト教が伝来する以前から、そしてキリスト教が広がって以後も、ニャカチの人々の間で信仰されてきた先祖崇拝である。こうした祖先の霊が住まう場所は至るところにあり、バオバブの木などを祠とした祈りの場も数多く存在した。そしてオディノの滝は、そうした先祖霊たちの住まいの中心地として、永らく信仰を受けてきたのである。 先祖霊は子孫である住民に賞を与えると同時に罰をも与える。罪の軽重によっては赦しを得ることもあり、また神霊の激しい怒りを得ることもある。生きるものたちの生殺与奪を握る存在なのだ。死は、思わぬ時に訪れる。そうした時、長老たちはその死の原因を探し求めようとする。そして時に、賢人たちはこう言うのだ。それは、オディノの神々の意思によって、奪われたのだと。 オミエリは逝き、そしてオディノも消えゆこうとしている。しかしなおも、住民たちは沈黙を守りつづける。なぜなら、彼らの文化がオディノについて語ることを固く禁じているからだ。彼らに遺された道は、ただこれから何が起こるのかを待ち続けることだけなのだ。 (了) |